上用賀(かみようが)のご紹介

 上用賀のまちは、世田谷区のほぼ中央に位置している閑静な住宅街です。

 

 道路は東西南北に碁盤の目のように整備されており、町域の東西を結ぶ道は南から順に「一条通り」「二条通り」と続き「十条通り」まで「用賀条通り」として名付けられています。また南北を結ぶ道には路線バスが通る「用賀中町通り」「西用賀通り」があります。

 

 春には西用賀通りや用賀プロムナード(愛称:いらか道)に桜が咲きほこり、馬事公苑や上用賀公園、近隣の砧公園はとても緑豊かで人々の憩いの場になるなど自然にも恵まれたまちで、保育園、小・中学校、児童館、公園などがある子育てにも適したとても暮らしやすい環境のまちです。

上用賀の世帯数・住民数
令和6年1月1日現在
地 域 世帯数 住民数(単位:人)
総 数 男 性 女 性
上用賀1丁目 1,569 2,987 1,387 1,600

上用賀2丁目

   466    974    418    556
上用賀3丁目 1,087 2,304 1,066 1,238
上用賀4丁目 1,355 3,102 1,520 1,582
上用賀5丁目 1,371 2,716 1,283 1,433
上用賀6丁目 1,222 2,699 1,306 1,393
総 数 7,070 14,782  6,980 7,802
※世田谷区ホームページ「令和6年(2024年)世田谷区の人口と世帯数(町丁別)」をもとに作成    
※町会の会員世帯数・住民数ではありません。    
上用賀・用賀 ~地名の由来とあらまし~

 「用賀」の地名の由来は、鎌倉時代初期に真言宗の瑜伽(梵語:ユガ)の修験道場が開設され、のちに瑜伽が転じて用賀になったのではないかと言われています。

 新編武蔵国風土記によれば、用賀村は永禄・元亀年間(1558年-1573年)に後北条氏の家臣飯田帯刀(たてわき)の子、飯田図書(ずしょ)が瑜伽山真福寺を開基したことによって、村が開かれたといわれています。

 

  江戸時代以前は、大山道の宿場町、真福寺の門前町として栄えていました。また江戸時代には大山道の整備が進み、庶民の間で「大山詣」が一大ブームとなり、街道沿いには大山へ雨乞いに向かう農民や、地元の特産品を江戸に運ぶ商人たちで賑わいました。その後、大山道をなぞるように玉川通り(国道246号線)が開通しました。

 

 明治22年(1889年)、それまでの荏原郡奥沢・尾山・等々力・下野毛・上野毛・野良田・用賀・瀬田の8村が合併して玉川村が成立し、用賀村は玉川村大字用賀になりました。

 

 昭和7年(1932年)荏原郡が東京市に編入され世田谷区が成立したときに、玉川村大字用賀は玉川用賀町1~3丁目に区画され、昭和43年(1968年)、新住居表示制度の実施に伴う町区域の変更により、玉川用賀町は上用賀、用賀、玉川台などに区画され、玉川用賀町2丁目の一部と玉川用賀町3丁目の大部分が上用賀になり現在に至っています。